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『阪神淡路大震災』の記憶

最終電車に乗って命拾い…

昨日の9.11についての投稿に倣い、震災についての非常に特殊な思い出についてお話ししたいと思います。今回の筆者は、阪神淡路大震災の起こった1995年、JR神戸駅から山手側に少し歩いた湊川神社のそばの小さな一軒家で一人暮らしを始めたばかりでした。厳密にいえば猫との二人暮らしで、大阪市内で勤めていたので、平日仕事が遅くなる時などは、朝ドライフードをたっぷりエサ箱に入れて出勤し、猫には申しわけないと思いつつも、当時大阪に住んでいた母の家に泊まることが時々ありました。

そんな中、ある土曜日の仕事帰りに母の家に泊まり、日曜の午後に神戸の自宅に帰宅したことがあります。その日の夜、翌日月曜日からの仕事に備えお風呂につかりパジャマに着替えて寝る準備をしていた時、突然自宅の電話が鳴りました(当時は携帯電話も普及しておらず、ベル音のなる固定電話が自宅にありました)。電話の主は母で、「お母さんの自転車の鍵を持って帰ったでしょ。明日仕事に行けなくなるから、今から持ってきて。どうせ明日出勤するんだから、うちからの方が行きやすいでしょ。」と『寝耳に水』の言葉が耳に飛び込んできました。

すでにパジャマも着ていたので、そのタイミングから外出するのは絶対に嫌だと思いました。1月中旬の1年の中で最も寒い時期でもありました。断ろうとしましたが、ハンガーにかけてあるコートのポケットに手を入れると、中には確かに母の自転車の鍵が…。結局、母が一歩も引かず、絶対に困ると主張したため、パジャマの上からコートを羽織り、しぶしぶ母の家に向かうことになりました。その時点で午後10:00をまわっており、母の家の最寄り駅に向かう地下鉄は終電でした。

 

震災が起こったのはその数時間後、1月17日、月曜日の朝5:46でした。その時のことは、また別の機会に詳しくお話ししたいと思いますが、その後私の住んでいた一軒家は、鍵をかけていたはずのドアや窓が全開になって歪み、2階の小さなベランダがぶら下がっているような有様で、自宅で寝ていたらおそらく命はなかったと思います。猫は無事でした。母が命の恩人であり(厳密にいえば自転車の鍵が)、些細なことが明暗を分けた奇跡のような出来事でした。

 

目に見えないものがもたらす安心感

阪神淡路大震災の起こった1995年当時は、携帯電話はほぼまったく普及しておらず、電話が断線により長期間繋がらず、阪神地区に住む友人などと連絡がとれるまでに相当な時間を要しました。長期間、生存確認が取れていない友人を思い不安でたまらない日々を過ごしたことを思い出します。今ではあらゆるものが見えない電波で繋がり、パソコンに線を繋がなくてもプリンター出力ができたり、写真どころか映像までが携帯電話同士で送り合える世の中になりました。

あらゆる場所に設置された防犯カメラの映像データも、ケーブルを繋がず電波で受け取ることができます。電波により繋がり合える、目に見えないがきちんと繋がっている、今では当たり前のことですが、よくよく考えると私たちが安全に暮らせているという安心感は、このように目には見えないがそこに『ある』というものがベースになっているのだと思います。

 

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